『何だかんだで世の中はちょっとずつ良くなる』
今日も良い話をします。
ちょっと前に、有限性と無限性の話を某所でやりました。
有限概念とか無限概念とか言われたりする、あの議論です。
実は、私たちは常に有限概念の奴隷になっているものでして、
有限概念下のものしかそもそも認知できないですし、
それこそ、ひとつの言葉や意味を与える時点でかなり有限概念を
利用していることになります。
個人の有限性はひとりひとり違っています。
例えば、お金の話で考えてみましょう。
「私はお金が無くって、、、」
みたいなことを言う人がいます。
この時、「財布の中に入ってる現金」を指して言っている場合、
その人の可処分所得に関する有限性は自分の財布ということになります。
ここに有限性の壁を持っています。
しかし、ある人は、
「友達の持っているお金も、正当な理由があれば自分でつかえる」
と思っているかも知れません。
そういう人の場合、可処分所得に関する有限性は、
「自分と自分の友達が持っているお金」
というところに壁があるわけです。
更に、上場企業の経営者ともなると、
世の中から資金調達をして事業をしているわけですから、
友達ということではなく、
「自社の投資家が投じたお金」であり、
「自社に投資される可能性のあるお金」までが、
可処分所得の有限性に関する壁なわけです。
※厳密に、所得という概念でないのはもちろんですが、単純化して言っています。
この3つのケースだけ見ても、既に、有限性は全然違います。
実は、これは本人にとっては「当たり前」なので、意識しないのですが、
それだけに、あまり話題にされません。
そして、ここで重要な事実を挙げてしまうと、
私たちの住んでいる世界はどうやら無限概念で出来上がっているっぽいです。
そう、私たちの側は勝手に有限概念で世界を見て、
あーだこーだと悩んだり、思考や発想の限界をつくっていますが、
それは、世界そのものの姿からすると、既に間違っている。正しくないです。
あらゆる法則や定理、知識を私たちはさも世界を正確に表したもののように語ります。
そうやって世界を理解したつもりになります。
しかしながら、知識になるということは、大前提が有限概念ですから、
もう、どんなに修正しても必ず間違っています。
私たちがよくやってしまう間違いは、
「技術革新が絶対に起きない」
という前提条件を置いてしまうことです。
例えば、「太陽エネルギーは核融合反応なので、永遠ではない」
みたいなことを言われると、「そうだよね」となるのですが、
この「そうだよね」にはたくさんの有限概念が混ざっています。
いくつか考えてみると、
まず、「太陽を外部から制御できるようになる可能性」
というのを完全に否定しています。
この壁を超えると、既にこの話は間違いになります。
また、「太陽の代替となるものを生み出す」という可能性も否定しています。
私たちが「これは間違いないだろう」と思っている知識も、
根本が有限概念によって成り立っているので、
無意識に信じているある条件がずれたらすぐに間違いになります。
にも関わらず、やれ定量的だの論理的だのと言って、
あたかも世界を正確に表しているかのような誤解をしています。
しかも、そういう言説を言う側も言われる側も同じように間違っているので、
これで会話が成立してしまいます。
世界そのものは無限概念で出来上がっているのであれば、
その一部となる私たちも本当は無限概念の一部。故に無限性があるわけです。
無限の一部は無限。というか、一部という切り取り方が間違ってるのですが、
有限でないと私たちは観測ができないのでこういう表現をつかってしまいます。
なので、みんなが信じている有限概念というのは、ちょっとずつ、
誰かの手によって「それってホントは間違ってるね」と、
あっさりとその壁を壊されてしまいます。
こういうことが無限に繰り返されるとしたら、
私たちの住んでいる世界は、ちょっとずつではありますが、
必ず良くなることになっています。
まぁ、この話はやりだすと、あらゆる知識は間違ってるっていう証明を
それこそ無限に語れてしまうのですが、それはそれとして、
明日の世界は今日よりも何かが良くなっている。
先月よりも今月は何かが良くなっている。
有限性の壁は毎日どこかで壊れています。
また、自分もたくさんの有限性の壁を持っていますけど、
それはすぐに壊すことができる。
壊したところで誰も困らない。
いやむしろ、壊さないから自分が困ってる。
自分に影響を与えている知識や情報にはどんな有限性が含まれているか?
そういうことを見つめてみると、ちょっとずつ自分が良くなります。
勉強するとバカになるというのは、この意味においては正しいと思います。
知識や情報として固定的に語れるものが増えるということは、
自分に刷り込まれた有限性が増えているわけですから。
ホントは、自分はちょっとずつどんどん大きくなれます。
が、仮にどんどん勉強してバカになって有限性と無能感が強まったところで、
世の中は全体では、逆の意味でのバカによってちょっとずつ有限性の壁が壊されます。
だから、生きてるだけでも、ちょっとずつ良い世の中に生きられるようになっていきます。
良いことですね。
『良い表現をつかう』
今日も良い話をします。
ちょっと、とても書けないような出会いがあったのと、他のことを合わせて、
備忘録のようなことを書いてみます。
私たちは日々、色々な表現をしています。
絵画や彫刻をつくっていれば大掛かりなものですが、
そうでもない場合でも、それなりの表現をしています。
例えば、こうやってネット上に記事を書いたり、というのもそうでしょうし、
Twitterでつぶやいたり、ごはんの写真を撮ってそれを世界中に晒すとか、
そういうこともあります。
もっと身近に、誰かと会って話をするとか、
そもそも、服を着て人がいる場に出ていくだとか、
もう、表現しないで生きているということは殆どありません。
意識しようがしまいが、何らかの表現をしながら生きています。
その中で、良い表現というのと、そうでもない表現というのがあります。
もう少し正確に言うならば、
その表現が何かの感動を生むかどうか?
というのが良いと言えるかの境目じゃないかと思います。
そういうことを踏まえた上で、、、
さて、ある質問に対して、どう答えるか?
答えを考える時には、内容はもちろん大事ですから、
その答えの内容、ストーリーはそれはそれで考える必要があります。
ただ、それでおしまいではなくて、
それをいかに良い表現で言えるか?というのが、
実は、答えの効果を考えると半分以上大事じゃないかと思うのです。
それを考えるきっかけになった質問と回答を書けないのがもどかしいですが、
色々考えた上で、表現はシンプルかつシャープに。
なかなかシンプルでもシャープでも無い説明になってしまいますが。。汗
ただ、
立ち位置として、「あなたを幸せにする、感動させるのが私です」というところから
回答を考え、表現を考え抜けば、そうそうハズレは無いでしょう。
あなたの役に立つ。
あなたに喜んで頂く
あなたを幸せにする。
あなたに安心して頂く。
あなたを楽しませる。
私はあなたのために全力を尽くします。
と、こういう立ち位置から考える表現、
表現そのものは知識やスキルによって仕上げられるかも知れませんが、
その土台となるマインドによって、良い表現が生まれるかが決まると思います。
ですから、そういうマインドでいることが結果的に
良い表現をつかえるようになる第一歩なのだと思います。
良い表現は、良い結果への階段になるでしょう。
あなたの人生において。
『生き方に悩む必要が無い理由』
今日も良い話をします。
ある時、こんな質問がありました。
「たまにですが、自分の生き方はこれで良いのか?
って不安になることがあります。
そういう時にどう対処しますか?」
その時は時間がなかったのでかなり端折った回答をしましたが、
その話をしてみます。
例えば、
凄くスケジュールがいっぱいだったりする時の帰宅途中とか、
「忙しく動きまわってるけど、これは幸せと言えるんだろうか?」
なんて感じたり。
誰かからの誘いを断ることになった時に、
「ホントにこの優先順位で良いんだろうか?」
と思ったり。
自分と違うことをやっている人を見た時に
「あんな風になれたら良いな、羨ましいな」
と口にしたり。
生き方に関する悩みというのは、ちょっとした隙にやってきます。
だいたいにして、ちょっとした隙にしか現れないものでもあります。
さて、何で私たちはこのちょっとした悩みに悶々とすることがあるのでしょう?
結論を言ってしまうと、
「どこかに正解があると思っているから」
です。
悩みの180度反対側には「正解、正義、常識」といったものがあります。
例えば、髪が減って頭が禿げてきたのを悩みとした場合、
その反対側には「フサフサに頭髪がある状態」があるわけでして、
それがその人にとっての「正解」だから悩みが生れます。
この正解というか常識を否定してみると、禿げていることは悩みではありません。
それこそ、「生まれたままの姿に戻った」と思えば、何も問題ありません。
(かくいう私も、父親も祖父も禿げたので「いつか生まれたままの姿に戻るだろう」という想定はしています。)
話を戻して、
世の中にはたくさんの生き方があります。
厳密な意味では、ひとりとして同じ生き方の人はいません。
「正しい」という字は一つに止まると書きますが、
正しいものであれば2つも3つもありません。
つまり、正しい生き方というのはどこにも無いのです。
シンプルに言えば、全ての人の生き方は間違っているのです。
どうやったって間違いなのです。全部間違いなのです。
全てが間違ってると分かると、正解を探すことに意味はありません。
ですから、生き方に悩むというのは意味がないのです。
全く悩む必要がありません。
思えば、人類の思想史を見れば、
常に次の世代が前の世代の思想を覆し、
そうやって人は生きてきました。
どんな偉人だって、どんな有名人だって、
どんなに尊敬している人だって、どんなに頼りになる人だって、
真面目に見えようが、いい加減に見えようが、
みんな、生き方は間違いなんです。
なんて単純なんでしょう。
『情』
今日も良い話をします。
「情」というのは常々、深い言葉だと味わっています。
漢字の意味をみてみると、、、
りっしんべんなので心のこと。
また、青は「せい」という音を表し、
清や請の意味を持つそうです。
求める心。
一方で、「性」は先天的な心であるのに対して、
「情」は後天的な、外部への刺激に応じる心であると言われます。
さて、
「苦楽を共にする」という言葉があります。
が、
実際に、そういうことは殆どありません。
一生においてこの後天的な心のはたらきによって、
苦労を共にできる人というのはそうそういません。
逆に、楽を共にできる人というのは、
いくらでも増えていきます。
楽を与えることができると、
自分の周りにはどんどん人が集まってきます。
※嫌だと言っても集まってきます。みんな友だちだと言ってきます。
多少、悩んだりした時に声をかける人もありますが、
「トータルで考えれば楽」
という想定のもとに、声をかけてくれます。
それは、
綺麗な言い方をすれば、期待とも言えます。
その意味で、自分の周りにたくさんの人を集めるには、
ともかく楽を与えることです。
もしくは、楽を与える期待をされること。
それが人を集める唯一にして普遍的な方法です。
しかし、この構造を真面目に考えると、
「結局は欲と打算以外の何ものでもない関係じゃないか」
となります。
そうです。
その通り。
「情」というのが後天的であることもありますが、
苦労を共にしてくれる友だちなんてものは、
元々いないのです。
人にそんな能力は先天的には無いのです。
もし、自分が人知れず苦しい思いをしていても、
それを分かってくれる人がいないと感じても、
特別なことでは無いのです。
だから
自分には友達がいないだとか、
人徳がないんじゃないかとか、
人に大事にされてないんじゃないかとか、
落ち込むことはありません。
それが元々の状態なのです。
もし、一生という時間の中で、
苦労ばっかり共にして、
そもそもそれをよく分かっていても、
それでも一緒にいてくれるような人がいるのなら、
それが本当にありがたいことなんです。
そんな出会いは一生に一度あるかどうかです。
だから、もしそういう人がいたら、
大事にしなくちゃいけません。
それはきっと、自分がずっと苦労してでも大事にする価値があります。
それが「情」で繋がった関係だと思います。
外部要因でしか得られない関係でありながら、
しかし、筋の通った関係でもありません。
もし孤独を感じても、情のある友というのはそれだけ得難いものであって、
一生かけての宝探しなんだから、と、
慌てないでいるのが大事だと思います。
『巨人の肩に乗る』
今日も良い話をします。
人間というのはそれが良いか悪いかという以前に、
欲のかたまりだったりします。
欲は5つに分類できます。
食欲、財欲、色欲、名誉欲、睡眠欲、と。
食欲:食べたい、飲みたい、おいしいものが食べたい
財欲:お金とかモノがほしい
色欲:性的興奮や快楽を追求する
名誉欲:人によく思われたい、disられたくない、褒められたい
睡眠欲:眠たい、楽がしたい
私たちの意思決定というのは、これ以外のところからは出てきません。
これらのバランスによって、意思決定が繰り返されています。
それらの意思決定がより効率的に成果に結びつけば、
「うまくいってる」と私たちは感じるわけで、
そうじゃない時に、ムカついたり愚痴りたくなったりしてしまうのです。
その効率を上げるためのひとつの方法が
「レバレッジ」と言われたりもしますが、
借景や借名というものです。
というのが、人は他人の話には興味がないといいますか、、、
その人の印象に残るのは映像です。
確かに、人間の脳の第一言語はテキストでも音声でもなく、
イメージ(像)です。
それが分かると、この映像の効果の凄さというのは分かるでしょう。
例えば、営業でも、評価されるのは、
優秀かどうかなのではなくて、優秀に見えるかどうかなわけです。
実際のところは。
そもそも、相手より優秀でない場合は、下働きのような仕事しか無いでしょう。
付加価値のある仕事、相手のできないことを補完するような仕事であれば、
究極的には、その優秀さを理解できないわけなのです。
つまり、理解できないものを理解させるわけですから、
いくら説明したってそれは効率的とは言えません。
そこで、自分をどう見せるのかという努力はそれは大事ですが、
借景とか借名というのがよりパワフルな方法です。
景色を借り、名を借りるというのは、
目に見える空間的なインパクトであり、
内容説明以前の立場によるインパクトがあります。
正直なところ、絶対に失敗しない人というのは、
何もしない人だけですから、(まぁ、それ自体が失敗とも言えますが)
誰がやっても失敗は起こり得ます。
ですから、まず大事なことはチャンスを手にすることです。
そのために、巨人の肩に乗るのです。
てこというのは、支点と力点の距離が長いほど楽に作用します。
ですから、巨人が大きければ大きいほど、その効果も大きいわけです。
で、具体的な応用方法を書こうかとも思ったのですが、
わざわざこの話に耳を傾けるような方であれば、
そんな生々しい話は不要かと思いますので、これで筆を置きたいと思います。
『全員が分からないこと』
しばらく間が空いてしまいましたが、今日も良い話をします。
何か、他人にとって価値のあることをやろうとするならば、
みんなができないこと、みんながやらないことをやってあげなければ、
「それは君にお願いしなくても良いよ」
と言われてしまいます。
ビジネスの話をするならば、
利益の正体というのは、情報の非対称性だと
そういう話でもあります。
もし、新しいことを始めようとした時に、
それが他人にとって価値を持つかどうか?
どの程度の価値になるか?
というのは、
「どれだけの人が分からないことなのか?」
に、比例します。
逆に、全員が理解できて納得できるような話は、
わざわざやるほどの価値は殆どありません。
というか、既に誰かがやっていることばかりです。
もちろん、知らないことからは発想できないわけですから、
分解していけば、全ては既存の要素なのですが、
その組み合わせの結果に、「みんなには分からないこと」
が、どの程度含まれているのか?
その「分からない度合いに」アイディアの可能性があります。
大組織から世の中のルールを変えるようなアイディアが生まれにくいのは、
みんなが理解できることばかりやるようになりがちだからです。
だから、自分のアイディアは、「どの程度みんなが分からないのか?」
ということを中心に、何をやるか、何をやらないかを決めるのが良いでしょう。
みんながみんな「それは良いアイディアだ」
なんて言ってるとしたら、そのアイディアには重大な欠陥があると思ったほうが良いです。
『なぜ人類が地球を制圧できたのか?』
最近、非常に重要な仮説が立ちました。
発端は、ある実験の結果を知ったことです。
どんな実験かというと、、、、、
未開社会の子供に、ブラックボックスを見せます。
ブラックボックスの他には細い棒を持っています。
そして、下記の一連の動作を見せます。
1.ブラックボックスの上にはつっかい棒が渡してあるのですが、
細い棒で横からつっつくとつっかい棒は外すことができます。
2.つっかい棒を外したところには穴が開いています。
その穴に細い棒をつっこんでコツコツと、数回叩きます
3.ブラックボックスの側面についている小さな蓋をあけて、
細い棒を突っ込みます。
4.細い棒を引っこ抜くと、ご褒美であるシールがついてきます。
これを見せた後に、子供にブラックボックスと細い棒を渡すと、
同じようにやって、シールを手に入れます。
今度は、シールをエサに変えて、チンパンジーにも同じ様子を見せます。
そうすると、チンパンジーもやはり同じようにやってエサを手に入れます。
次に、ブラックボックスを、同じ構造の透明な箱に変えます。
箱を透明にすると、箱の上部とそれ以下は完全に仕切りがあるのが見えます。
つまり、上記の1と2の動作には、全く意味がないことが丸分かりです。
この状態でまた細い棒を渡してみると、、、
人間の子供は1から4の動作を同じように行いました。
一方でチンパンジーは、いきなり3からやり始めました。
この実験においては、チンパンジーは目的合理性のある行動をして、
人間は意味が無いと分かっているのにその前にやったのと同じ行動をする、
という結果になりました。
他にもいくつか、短期の目的合理性に関する実験があったのですが、
この実験の違いは重要だと思いました。
これは見方を変えると、
人間には「目的合理性はさておいて、習慣を引き継ぐ」
という傾向があることが分かります。
つまり、自分の行動に意味があるのかは考えずに、
与えられた習慣を受け入れるというわけで、、、
これは、人間の持つ文化のあらゆるところで見て取れます。
(その行動に何の意味があるの?と問うと、特に意味が無いことが多いです)
人類は目的合理性だけを考えると、非常に非効率な判断をすることも色々とあるわけですが
非効率な動物故に、個体数が必要とされたわけで、
個体数が増えた結果、力を持つことになった、という側面があると思います。
個体全体で考えると、無駄と言いうか、遊びがある分だけ、
予想外の変化に対して、個体全体が生き残る確率は上がるわけです。
これを、露骨な言い方をすれば、
「人類が地球を制した要因は、人類がバカだから」
ということになります。
逆にチンパンジーは必要なことしかしないので、
必要最小限の個体数で生活すれば良いわけです。
そこには無駄が少ないので、例えば、人間に乱獲されて絶滅しそうになるとか、
そういうこともあるわけです。
※ボノボがそういう状況ですね。
これを前提にして世の中を見てみると、
まぁ、非常に分かりやすく、そして、面白くもあります。
そして、この意味で人間的であるほど、騙される人になるわけで、
逆に、人を動かしたりする人は、よりチンパンジーっぽい思考をしているわけです。
『1人会社の良いところ』
この場では、良いことしか書かないことにしていますが、
今回は、良くないことも書いておきたいと思います。
私の周囲には1人会社の方がけっこういらっしゃいます。
ビジネスを進めるには、大まかには
・商品やサービスを提供する
・お金を頂く
という2つの要素が必要です。
この2つの要素について、お金がぐるぐると回り続けると、
事業が成立します。
1人会社においては、
自社の中に2つの要素があるか、
いつも安定的に「足りない要素を補う取引先」があるか、
の、どちらかが経営していくには必須です。
大企業であれば、この両方について、
社内に細かくあれもこれも揃っていたりします。
1人会社の場合は、それが揃っているとしたら、
お金を頂く力が非常に高く、なおかつ、
強い商品を持っているか、本人がハイパフォーマーか、
という社長ということになります。
そうでない場合、常に外部との連携が必要になります。
ですから、自己完結できない場合であれば、
今度は社外のリソースと自社の特徴をうまく組み合わせて、
事業を成立させるようなコミュニケーション能力が必須です。
ここで言う「コミュニケーション能力」は、実にたくさんの要素を含みます。
ビジネスモデルを描く力から、相手の状況を理解する能力、
さらに、関係するプレイヤーに気を回して持続可能な状態をつくるとか、
もう、本当に多岐に渡ります。
分かりやすく説明するとか、クリティカルな質問をするとか、
それはもちろんのことです。
その意味で、1人会社の経営というのは、
自己完結しようと思えば、人を選びます。
これは、従来のRBCインテグレートの講義では、
強調が十分ではなかったように思います。
さて、1人会社の良いところは、
顧客へのコスト転嫁が最小化されるところにあります。
なんと言おうが、その点は「1人」というのが
最大ポテンシャルになります。
※ただし、業態によって1人会社が成り立たないケースもあるので、
万能ではありませんが。。
また、
必要なものを必要なだけ組み合わせて事業をつくることができます。
必要なものを必要なだけ組み合わせるスタイルであれば、
利益率は良くなりやすいです。
これは、例えば、大企業の利益率を見ても、
ハードウェアの製造をしているIT企業と、
製造という機能の無いIT企業とでは、
後者のほうが利益率が高い傾向にあります。
「自社のもの」が増えれば増えるほど、
利益率は下がりやすい。
特に、解雇規制の厳しい日本で企業経営をすれば、
1人会社は極めて優秀なコスト構造にしやすいです。
コスト構造が優秀であれば、
顧客のことを大事にしやすい。
それは、スピードについてもそうです。
かなり柔軟に動ける可能性が高いです。
なんといっても、社内に階層構造がありません。笑
ただ、勘違いしてはいけないのは、
これは、構造的なポテンシャルである、ということです。
1人会社をつくってさえいればそうなる、ということではないです。
『人は変わるか?』
「人は変わるか?」
この問いについては、何時間でも議論できる気がします。
「人は変われる」と言う人もいれば、
「人は変わらない」と言う人もいます。
もはや、これはその人の信仰だと思います。
ちなみに、
「人を育てる」
ということがやりたい人にとって、
「人は変われる」
という信仰は必須条件でしょう。
あなたはどちらの信仰でしょうか?
実のところ、
「人を育てる」
ということが、必ずしも良いとは限りません。
「人を育てる」という時に、
「苦手を克服する」というのがあったりします。
果たしてこれは意味があるか?
大体の場合、
苦手を克服した状態
というのは、あまり他人の役には立ちません。
得意なことをさらに伸ばした状態
であれば、他人の役に立つ可能性が高いですが。
なんか、
「人は変われるよ!」と言えば好感度が上がりそうで、
「人は変わらないよ」と言えば好感度が下がりそうですが、
ちょっと言い換えて、
「ひとりひとりの個性に応じてがんばれば良いの」とか言えば、
好感度は上がりそうです。笑
なので、どっちにしても好感度は上がると思うので、
自分の好きな方を信じたら良いと思います。
ただ、自分がどっちの信仰なのかが分かると、
自分のやったら良いこととやったら良くないことの判断が
良くなるんじゃないかと思います。
意識がある、って、良いことだと思います。
『人生は常に思い通り。それ以上でもそれ以下でもない』
これは、あっちこっちで答えること。
でも、ぼくらの世界とか日常というのは、全てこの言葉におさまっていると思います。
座右の銘とか、好きな言葉とか、そういう質問をされたら、
けっこうな確率でこの言葉を答えています。
実感として、「ある程度は思い通り」という方もいるかも知れませんが、
実際には全てが思い通りです。
これは、
世界がどう存在しているのか?
ということから説明できます。
まず、
私たちの周囲にあるモノというのは、
私たちの意味付けによって存在できています。
例えば、目の前にパソコンが置いてあるとします。
パソコンに対する意味付けができない人にとっては、
「とりあえず何だかわからない物体」
としてしかその人の世界には存在できません。
もっというと、それが机の上に置いてあるとして、
机に対する意味付けができない人におっては、
机+パソコンが
「とりあえず何だかわからない物体」
としてしか存在しません。
その繰り返しをしていくと、世界は存在できません。
裏を返せば、意味付けが出来る人の世界にはモノが存在できます。
パソコンといっても、中にマザーボードがあるのを知っている人にとっては、
筐体とマザーボードがそれぞれ存在しています。
これは、物体に限らず、
情報や出来事についても同じです。
ですからそもそも、
「今の状況」
というのを解釈した時点で、
「自分の思い通り」
にしかなりません。
意味付けと世界との話だと、
あまり恣意的な意味での「思い通り」ではない気がするかも知れません。
意識や意思、はたまた意志とは無関係かというと、
そんなことはありません。
「状況」というのは解釈によって存在しているという順番で、
既に意志だとも言えるわけですが、
自分を中心に生まれる一切の変化というのも、
全ては自らの意志による選択が元になっています。
例えば、コンビニに入ろうと思うのが先で、カラダがコンビニに入るのは後です。
自分に関する「今の状況」というのを結果とすれば、
その原因は自分の思いです。
もっというと、意識レベルで思うこと、
つまり、思ったと自覚できるものはほんの一部。
無意識レベルで思うことのほうが膨大です。
なので、「今の状況」と「思い」というのは、全く誤差が無いわけです。
で、それはもう、単なる事実というかメカニズムというか、
そういう話なので、「座右の銘」という質問に対する回答として適切なのか?
という思いはあるのですが、、、
ただ、おそらく、かなり恣意的な、
なんというか、「願えば叶う」的な受け取り方をする人が多いと思うので、
答えることがあるわけです。
ここまでの話と繋げると、
「願えば叶う」わけではなくて、
「願った通りに叶っているのが今のあなたです」
という話でしかありません。
「願ってないことが叶っている」という状況がそもそも無いのです。
誤差がないんですから。
もの凄く端折って説明してしまいましたが、
要はそういうことです。
『審美眼』
最初の話に、、、といいつつ、今日は余談。
というか、今までの話と同じ事を別の切り口で書いてみます。
五感と意識、無意識を通した美醜という感覚は、
おそらく全ての人が持っているでしょう。
必ず、と言いたいところ、ひょっとしたら反例があるかも、、、
と、ある種の誠実さ故に、歯切れが悪いわけで。。汗
美しい音とそうでない音。
美しい像とそうでない像。
美しい味とそうでない味。
美しい感触とそうでない感触。
美しい匂いとそうでない匂い。
美しい解釈とそうでない解釈。
あなたにとっての「美しい何か」とは何か?
そういうものがあります。
そこにある「美しさ」は、説明が膨大になるものもあれば、
そうでもないものもあります。
つまり、「美しさ」の構成要素が多いものとそうでないものがるわけです。
これは、優劣の議論を起こしやすいです。
たくさんの背景によって成り立っている「美しさ」であるほどに、
称賛の対象になりがちだからです。
ただ、説明されたところで、その「美しさの構成要素」が理解できない人にとっては、
それを「美しい」とは解釈することができません。
実際には「美しい」と言わされる感じになるとは思うのですが。。。
ひとりの人を「美しさを解釈するフィルター」だとすると、
単純なフィルターもあれば複雑なフィルターもあるわけで、
それこそ、人を評価することにも繋がります。
しかしながら、複雑なフィルターの良さもあれば、
単純なフィルターにも良さがあります。
また、人を見る観点は他にもあります。
そう思うと、「美しさ」というのは、けっこう面白いです。
笑えるという意味もありますが。。
『目に見えない行い』
ここまでの話で、
・運命は自らの行為によって決まる
・運命は縁の影響を受ける
なんてことが分かるかも知れない。
行為というのは、目に見えると思いきや、
実は、目に見えないものもある。
平たく言えば「心の行い」である。
行為は、3つに分けることができる。
カラダの行い、口の行い、
そして、心の行い。
例えば、東京駅に行く時、
部屋を出て歩き出すよりも前に、
「東京駅に行こう」と思い立つ。
東京駅に着いてから
「東京駅に行こう」とは思わない。
とかく、
目に見える行いを観察し、解釈し、
そこに対する影響を考えることが
うまい方法であり、賢いことだと思われがちだが、
それは浅はかだと言わざるを得ない。
我々にとってもっと大きな力を持っているのは、
目に見えない行い、
すなわち、「何を思っているのか?」である。
巷の自己啓発書などは、本当に良いものであれば、
だいたい同じようなことが書いてある。
数ヶ月で読まれなくなるような雑誌みたいなものは論外だが、
ハイレベルなものはほぼ共通した内容になっている。
ただ、上述のような基本を抑えずに読むと、
どれもこれも読んでるようで読めてはいない、
ということが起こる。
実際、成功するはずの本を読んでも成功しない人のほうが多いのだから、
読んでいる本よりも読み方の違いのほうが大きいのは明らかだ。
この「心の行いの力」というのが理解できると、
ようやく最初の話ができるのである。
次回は、ようやく最初の話に入れる。
『縁の影響力』
さて、よく言われることがあります。
「チャンスは人に乗ってしか来ない」
「女の一生は男で決まる」
等々、縁によって人は大きな影響を受けると言われます。
ここまでしてきた話を繋げると、
・そもそも完全なる正義などない
ということがあるのですが、
この話と縁の話には、とても大事な関係があります。
この世界の、
いつでもどこでも変わらない大原則として、
ある結果には必ず原因があり、
その原因が結果を引き起こす助けとなるのが縁です。
原因は交換のきかないものですが、縁は代替が可能です。
飲酒という行為を原因
酔っ払うというのを結果
と置いた場合、
・空腹
・テキーラ
・一気飲み
等の条件は代替が可能です。
本質的な原因と結果の関係は変わらないものの、
例えば、テキーラとビールでは結果の大きさに変動があるでしょう。
この世界の全ての動きは、このような関係によって、
私たちの都合や思いとは関係なく、いつでもどこでも変わらずに続いています。
インターネットの発達によって、可視化されたことがあります。
それは、
「自分に関係ないと思っている人を馬鹿にする」
という人の性です。
例えば、有名人を呼び捨てにする人は多いですが、
もし、その方と一緒に仕事をすることになったら、
まず呼び捨てにすることは無いでしょう。
Twitterなんかを見ていると、
捨て垢つかって心ない言葉を有名人に浴びせる方がいますが、
おそらく、そういうことをする方は、少なくともその有名人とは会わないと思ってます。
もし、その言葉を浴びせた直後に、
自分の目の前にその人が現れるとしたら、
まぁ、99%の人は発言内容を変えることでしょう。
そんな心ないことを言う人が、
じゃあ、自分の家族や身近な友人にも年がら年中そんな言葉を浴びせているか?
といえば、なかなかそうはならないでしょう。
これは、逆の面もあります。
つまり、
会ったことがある
自分の身近な人である
という場合に、大声で悪口を浴びせまくるというのは、
なかなかに難しいものがあります。
そこまで大胆なことができるとしたら、
それこそ家族に叱られるとか、
いつも仕事を一緒にやる人に叱られるとか
まぁ、そういう関係に限ってのことでしょう。
少なくとも、
的外れな悪口だとか、
伝聞による根拠のない非難だとか、
そういうことはなかなか出てこないでしょう。
人は、会った人のこと、継続的に会う人のことは、
なかなか悪く言えません。
もしくは、これから会う可能性が高い、という場合にも。
これは、秘密の暴露についても同じです。
Twitterで有名人のデートを暴露して得意になっていたアルバイトの大学生がいましたが、
友達の秘密をTwitterで暴露することはしません。
正直、Twitterでプロフィール書いた状態で暴露する時点で、
随分と頭の弱い学生だとは思いますが、それでも友達の秘密は暴露しません。
結局のところ、
ある人の正義感というのは、その人の
会った人、
会っている人、
会う確率の高い人、
という人たちの価値観によってつくられます。
面白いもので、
日本で育った人に「一夫多妻」と言うと、
なにかやや背徳感のある表現だと感じられますが、
サウジアラビアで育った人にとっては、
それは普通のことです。
まずは「人」というのが分かりやすい縁ですが、
他にも、ルールだとか文化だとか空気だとか、
そういったものにも影響を受けています。
もし、人に対して本当に影響を与えようと思えば、
このことをよく知っておく必要があります。
そして、自分自身の価値観から見ると
まるで正義とは思えないような価値観に対しても、
必ずフォロワーはいるものです。
この事実は見逃せません。
人の価値観と人の縁というのを意識すると、
本当にたくさんのことが分かります。
人に会うことの効能というのが一番大きいでしょうが。
さぁ、有縁の人にどんな影響を与えましょうか???
余談ですが、、、
「会う確率の高い人」
というのは、その人のセルフイメージと表裏一体です。
例えば、有名な人を呼び捨てにする人は、
その人とはまず会わないだろう、
もっと言えば、お近づきにはなれないだろう、と日々、自分に言い聞かせています。
なので、その人のセルフイメージも見えてしまいます。
『実は「気のせい」というのが正しかったりする』
大事な話があります。
ちょっと難しいかも知れませんが。
生きていれば日々「分かった」ということがあると思います。
なるほどね。よく分かりました。
と。
ただ、実は、正確なところは、
「分かった気がする」
です。
よく、分かるとは分けることだと言われます。
これは、identifyという英単語の解説なんかが有名かも知れません。
また、言語によって世界を分ける、というのもそれに近い話ですね。
「分かった」
という時には、
「何が分かりましたか?」
と問いかけると、
言葉で説明することができます。
逆も然り、言葉を与えられることで、世界を分けて、
それによって「分かる」ということがあります。
よく例に出すのですが、
日本で義務教育を受けた人であれば、殆どの人が
「ここに空気がありますが、、、」
と言われれば、「そんな気がする」と思います。
仮に、空気という知識を持っていないとしたら、
空気を認識することは、ほぼできないのではないでしょうか?
また、
ここにホコリが溜まっているとしましょう。
それを集めてひとつまみくらいにして手に乗せた時、
殆どの人は「手にホコリが乗っている」と分かるでしょう。
ただ、そのホコリを例えば6畳くらいの部屋の空間に、均等に配置したとしたら、
もう、それは「空気」としか思えないのではないでしょうか?
でも、さっきまでホコリがあったんです。
ホコリを中心に考えると、ホコリの中で呼吸している、とも言えます。
今は、ホコリと空気というのが別物なのかどうか?
なんてことを考えていたわけですが、
数字というのも実はかなり強引な概念だったりします。
たまに時間のある時には話すことがあります。
よく、新入社員研修(笑)、プレゼン講座(笑)とか、
就活生向けのエントリーシート対策講座(笑)
なんかで出てきたりします。
「具体的」な表現の例として、
数字情報
とかいうのが出てきます。
これは、便宜的には間違いないかも知れません。
つまり、その解説に疑問を持つ人が少ないから、
大概の人にとってはそれが正解になる、という意味で。
そもそも、具体とは何か?
体を具する
ということ。
究極の具体性は、
世界を世界そのものとして丸ごと飲み込むことです。(笑)
もっと言うと、認知の主体は我々の肉体という物理層の話ではなくて、
生命の本当の相(すがた)と、それと関連する物理層の一切のもの、
との関係を感じることです。
が、少なくとも意識領域の話ではないので、
そういうことをリアルにできちゃうとしたら、特別な修行をした人だけだと思います。笑
ので、我々には関係ない。
ただ、数字というのは決して「具体的」ではない。
例えば、道路の両脇にサクラの木がある。
これを「サクラの木が10本あります」と、我々は数えられちゃったりします。
これは、実はかなりいい加減なことです。
「サクラ」という言葉を知っていることで、
大宇宙から「サクラ」という部分をまず切り離します。
また、この木もあの木も「サクラ」と呼ぶことができる、という
我々の都合によって、どう見ても別の木なんですが、
1本、2本、と、「等価にして」数え始めます。
これは、「抽象化」という作業をした結果であるわけで、
数字という概念はそもそも抽象化したために出てくるものです。
あの会社は売上が20億円で、あっちの会社は売上が2兆円だ。
といった時に、それは全て等価として計算をされているわけです。
「ある価値を貨幣に換算し直した」のが20億円分とか2兆円分とか積み上がっています。
非常に抽象度の高い作業です。
最小単位の価値が何であるか、それはまるで想像がつきません。
そんなことを意識すると、
「分かる」というのは、「何かを曖昧にしたことで何かを切り出した」
ということになります。
そんな前提で、
切り出した何かをどう解釈するか?
ということをやっているわけですから、まぁ、我々が本当に分かっていることなんか、
殆どゼロに等しいです。
というか、世界を「分かる」ということ自体が、
既に、「まるで分かってない」ということを自称しているようにも思えます。
しかし、人は、
今日も何かを「分かった」と言い、
それに対する価値判断をしています。
ホントは、全て「気のせい」なんですけどね。。。
『座右の銘』
さて、なんだかんだで投稿が続いている。
実は、サービスの確認が目的だったりする。
この記事はiPhoneからの予約投稿テストを兼ねている。
座右の銘というのは、けっこうインタビューとかで頻出する質問だ。
だから、いつ聞かれても良いようにしておいたら良いじゃないかと思う。
とかいいつつ、いつもアドリブになるので、まるで説得力が無いという気もするが。。
さて、座右の銘というかモットーというか、
よく言う言葉がある。
それは、
「人生は常に思い通り。それ以上でもそれ以下でもない。」
という言葉。
これはかなり真実を言っている。
実は、思考とか志向という話ではなくて、ヒトのメカニズムを説明している言葉。
意識領域、無意識領域を併せて、
人生、すなわち、我々に関わる全ての結果は
全て思った通りにしかなりようがない。
というのがヒトの行動というのは、思ったことを具現化しているだけだから。
正確には、思うということ自体が行動だから、行動が人生のすがたと言える。
と、実はかなりありのままを説明しているのがこの言葉。
そういうのが好きなんです。
事実に反することを大声で言うのは好きじゃないのです。
ただ、社会は人の集まり。
大声で言って信者を増やすのが、けっこう有用な処世術だったりもする。
事実に反することでも人は信じるし、事実でも人は信じるとは限らない。
それはやっぱり「お好みで」ということになる。
余談だが、予約投稿の時刻指定がiPhoneアプリ版のほうがちゃんとしてるのはどうなのよ、と(笑)